父の生きざま
2010年12月16日
アナカレの最後の砦、三分間でTVの前での一人スピーチです。
お題はいろいろ考えたのですが、父の生きざまについて話しました。
先週の収録で、出来上がったDVDを見て、それぞれの感想です。
細かい注意点はいくつもあるけど、皆こんなに落ち着いて、咬まずに話せたことで、先生から及第点を頂きました。
最近になって、過去を振り返った時、もしかして私の人生に影響を与えたのは父かもしれないと思うようになりました。
父は二年前に亡くなりました。
遺品を整理したところ、五十七年分の日記と、「シベリア体験記」という手記が見つかりました。
そこには、戦争中の出来事がまさに、体験した人にしか分からなかったことが、 ぎっしり詰まっていました。
これを一冊の本に纏めました。
「自叙伝・陸軍中尉 山下玉太郎」です。

父は 陸軍士官学校 五十七期生で戦闘機の操縦の教官をしていました。
当時の日本の飛行機はお粗末なものでした。
その飛行機を マニラまで輸送する事になり十五機で出発したのに、役目を果たせたのはその三分の一でした。
エンジントラブルなどにより途中で 消息を絶ったり、亡くなったりしたのです。
実際の戦闘以前に、こんなにたくさんの方が亡くなっていたことが衝撃でした。
父は、その後、満州に赴任しました。
二度も不時着したのに かすり傷で済み、「不死身の山下・悪運の強い男」と呼ばれるようになりました。
昭和二十年八月十五日、終戦になったにもかかわらず ソ連軍が攻めて来ました。
はるばる 満州まで連れてきた 虎の子の学生たちをこのまま ソ連軍に渡すことはできないと、父は 九十人の学生を率いて 帰国の途に着きました。
上官からの命令ですが、 父も帰国させてあげたいとの計らいでした。
奉天からの最後の列車に乗り、知人に、学生達を託して、「このまま一緒に帰国してください!」と何度も懇願する声を振り切り、奉天に引き返し、ソ連軍に投降したのです。
その時の心情は次のように記されています。
「満州には、まだ幾万もの同胞が残されているのに、何で現役の将校が、このまま、おめおめと帰国できるものか。
結果的には、シベリアでの言語に絶する苦難の生活を、自ら求めたようになったが、しかしこの時に自分の選んだ行動と信念
は、俯仰天地に恥じざる、正しい選択であったと自負し自らを慰めている次第である。」
苦しいことばかりではなく、隙あらば夜の街に出動し、それなりの青春時代もあったことに救われた思いもしました。
食道がんのため、口から食べ物を 摂ることができませんでした。
咳のために、寝る時も 身体を横たえることができません。
血を吐くような毎日でしたが、息を引き取るまで、毅然としていました。
父の中では、地獄のような闘病生活もシベリアでの生活と同じように、自分の胸に封印しようとしていたのでしょう。
この自叙伝をゆかりの方たちにお送りしたところ、それぞれが父への想いを書いて下さり、亡くなったあとで人となりを知ることになりました。
最後まで軍人でした。
父の生きざまを、子供や孫たちにも 伝えていくつもりです。
父は、特攻隊の方たちにも操縦を教え、知覧には、亡くなった方の中に、知ってる名前が沢山あったそうです。
その知覧に明日行きます。
母と弟と。そこでどのような気持ちになるかは、イメージできません。
お題はいろいろ考えたのですが、父の生きざまについて話しました。
先週の収録で、出来上がったDVDを見て、それぞれの感想です。
細かい注意点はいくつもあるけど、皆こんなに落ち着いて、咬まずに話せたことで、先生から及第点を頂きました。
最近になって、過去を振り返った時、もしかして私の人生に影響を与えたのは父かもしれないと思うようになりました。
父は二年前に亡くなりました。
遺品を整理したところ、五十七年分の日記と、「シベリア体験記」という手記が見つかりました。
そこには、戦争中の出来事がまさに、体験した人にしか分からなかったことが、 ぎっしり詰まっていました。
これを一冊の本に纏めました。
「自叙伝・陸軍中尉 山下玉太郎」です。
父は 陸軍士官学校 五十七期生で戦闘機の操縦の教官をしていました。
当時の日本の飛行機はお粗末なものでした。
その飛行機を マニラまで輸送する事になり十五機で出発したのに、役目を果たせたのはその三分の一でした。
エンジントラブルなどにより途中で 消息を絶ったり、亡くなったりしたのです。
実際の戦闘以前に、こんなにたくさんの方が亡くなっていたことが衝撃でした。
父は、その後、満州に赴任しました。
二度も不時着したのに かすり傷で済み、「不死身の山下・悪運の強い男」と呼ばれるようになりました。
昭和二十年八月十五日、終戦になったにもかかわらず ソ連軍が攻めて来ました。
はるばる 満州まで連れてきた 虎の子の学生たちをこのまま ソ連軍に渡すことはできないと、父は 九十人の学生を率いて 帰国の途に着きました。
上官からの命令ですが、 父も帰国させてあげたいとの計らいでした。
奉天からの最後の列車に乗り、知人に、学生達を託して、「このまま一緒に帰国してください!」と何度も懇願する声を振り切り、奉天に引き返し、ソ連軍に投降したのです。
その時の心情は次のように記されています。
「満州には、まだ幾万もの同胞が残されているのに、何で現役の将校が、このまま、おめおめと帰国できるものか。
結果的には、シベリアでの言語に絶する苦難の生活を、自ら求めたようになったが、しかしこの時に自分の選んだ行動と信念
は、俯仰天地に恥じざる、正しい選択であったと自負し自らを慰めている次第である。」
苦しいことばかりではなく、隙あらば夜の街に出動し、それなりの青春時代もあったことに救われた思いもしました。
食道がんのため、口から食べ物を 摂ることができませんでした。
咳のために、寝る時も 身体を横たえることができません。
血を吐くような毎日でしたが、息を引き取るまで、毅然としていました。
父の中では、地獄のような闘病生活もシベリアでの生活と同じように、自分の胸に封印しようとしていたのでしょう。
この自叙伝をゆかりの方たちにお送りしたところ、それぞれが父への想いを書いて下さり、亡くなったあとで人となりを知ることになりました。
最後まで軍人でした。
父の生きざまを、子供や孫たちにも 伝えていくつもりです。
父は、特攻隊の方たちにも操縦を教え、知覧には、亡くなった方の中に、知ってる名前が沢山あったそうです。
その知覧に明日行きます。
母と弟と。そこでどのような気持ちになるかは、イメージできません。
Posted by おばあちゃん at 18:28│Comments(2)
この記事へのコメント
特別攻撃隊のまち“知覧”に行かれるのですね。
特攻資料館へ、たぶん行かれると思いますが
ここは涙なくして見学できないと思います。
入館者は男性も女性も泣いていたり、手紙とか展示品を見て
泣きながら語りかけていたりしていました。
特攻資料館へ、たぶん行かれると思いますが
ここは涙なくして見学できないと思います。
入館者は男性も女性も泣いていたり、手紙とか展示品を見て
泣きながら語りかけていたりしていました。
Posted by バジル at 2010年12月17日 19:40
こんばんわ~
コメントありがとうございます。
今日知覧へ行ってきました。
考えることがたくさんあります。
整理してブログにアップします。
涙なしではいられませんでした。
今は指宿のホテルです。
おやすみなさい。
コメントありがとうございます。
今日知覧へ行ってきました。
考えることがたくさんあります。
整理してブログにアップします。
涙なしではいられませんでした。
今は指宿のホテルです。
おやすみなさい。
Posted by おばあちゃん at 2010年12月18日 20:28